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<意識高い>という呪い ー『すべて名もなき未来(樋口恭介)』読書感想文ー

樋口恭介氏の『すべて名もなき未来』を読んでいる。

この本は樋口氏が種々の書物を取り上げながらその書評や雑感を述べるオムニバス形式で構成されている。

序盤でいきなり”小島よしおはパンクだ”という謎の主張が展開されるかと思えば、数ページ後には真面目な語り口で音楽やディストピアSFについて語られているという突拍子もなさがあったが、僕は好きだ。

 

その中で、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』を取り上げて書評が書かれていたが、これがなかなか刺さる内容であり、感想文を書かずには居られなくなってしまった。
というのも、資本主義リアリズムが語る世界観は、私が大学時代に陥った「意識高い系学生」を生む要因と、そうした彼らの行く末を端的に表していると感じたからだ。 

 

<僕が意識高い系学生だった頃>

 2010年代頃だろうか、SNS上では自己啓発に感化された大学生のことを、いわゆる意識高い系と呼び揶揄していた。
僕も当時はそうした学生の一人であり、自分を高めるための自己啓発にのめり込んでいた。
古典や教養書を幅広く嗜もうと努力し、ボランティアに精を出し、人脈の形成を試みり、同じサークル内の知人と将来のことを話し合ったりした。
そうした背景には、「変わり続ける世の中で、誰かに頼って生きていくことは難しい。自分を変えて、世界に適応していかなければいけない。」という強迫観念のようなものがあったのかもしれない。

学習し、経験を積み重ね、自分に価値を付加し、自分を売り込む。
僕はジョブズザッカーバーグに憧れ、自分もそのようになれると信じた。
大学生活を資本主義市場で自分に商品価値をつけるための助走期間として捉え、自分を高めることを目指した。

そのためには自分を律していかなければならない。

他人を頼ってはいけない。

時は金である。他人が青春とやらを謳歌している間に、自分は奴らを出し抜かなければならない。

そうした、一種の強迫観念に近い思想に囚われながら、それでも僕は他人よりも秀でてやるんだという野心を抱き、<意識高い活動>が見せてくれる甘い幻想を信じていた。

これが昔の僕。大学1年生の春である。 

 

 

<資本主義リアリズムが僕らに要請するもの> 

さて、樋口氏は本文中でマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』からこのように引用する。

 

”そこではあらゆるものが値付けされ売買される。(中略)誰もが「私を買ってください」と主張し、自分の持つ何かを切り売りしながら生きている。(中略)「資本主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。”

 

”そこでは怠惰であることは許されない。非合理であることは許されない。他者に助けを求めることは許されない。代替案は存在しない。(中略)無限の競争の中で敗者が生まれ、敗者は退場を余儀なくされる。敗者は諦観に苛まれている。無能感に苛まれている。絶望だけが口を開けて待っている。(中略)「自分が変わることで世界を変える」しか生き残る道は用意されていないーそれが「資本主義リアリズム」だ”

 

これらの引用に見られるように、資本主義リアリズムが語る社会とは、①生きることの売春性と、②個人の自助努力の必要性とを内包するものである。

この視点から考えるのであれば、一部の学生は生きることの売春性を直感的に理解したうえで、市場に出ていく前段階として大学生活を捉えていたのではないだろうか。そのために他の学生よりも+αの付加価値が必要であると察知し、それを自助努力により身に着けようという志向が彼らを意識高い学生たらしめていたように思う。

少なくとも、当時の僕の行動理念にはこうした思想が根付いていたと確信できる。

 

(なお、意識高い学生と”意識高い系”学生は明確に区別される。後者は一般的に思想と言動が一致せず、高い目標を掲げて周囲を巻き込むだけ巻き込むが、行動が伴わないため周囲から疎まれる傾向にある。ただし、この記事中では両者を混同して、どちらも根は同じだと仮定する。なお、僕はどちらかというと後者であり、幾人かに迷惑をかけた。恥ずべき過去の1つである。)

 

 
僕が学生だった2010年代は、終身雇用の崩壊とともに流動的なキャリア選択が認められようになり(あるいは認めざるを得なくなり)、個として価値を出すことが求められるようになってきた。そうした時代背景において、自己啓発やセルフヘルプの概念はなるほど受け入れやすかったのだろう。
成り上がるのも負け犬になるのもすべて自分次第、すべては自己責任。
僕はこうした文言を特に疑問もなく受け入れていた。

(余談だが、当時流行っていた漫画『東京喰種』のなかで”この世の不利益はすべて当人の能力不足”というセリフが出てくるが、こうしたワードがすんなり描写されるのも時代背景をよく反映しているんじゃなかろうか)

 

 

<セルフヘルプがもたらす生きづらさ> 


しかしある時、少しばかり先の未来のために、今この時間を手段化して切り売りしている自分がむなしくなってしまった。大学進学という少なからぬ金銭的・時間的投資をペイするために、どのような仕事に「就かねばならないか」といったことを考え始めていた自分が嫌になった。そして、金銭的不安という足枷を外した先に、今を手段化して捧げている将来を超えたその先に、今抱えている目的が達成された先に、自分がどんな未来を生きたいのかよくわからなくなってしまった。


それに加えて、セルフヘルプがもたらす孤立無援の世界のなか、自分だけを信じて生きねばならないという強迫観念に対して僕は参ってしまった。
僕はほぼ無気力になり、学問への意欲が削がれてしまった。
今でも思い出せるのだが、大学1年の夏季休暇の殆どを自宅に引きこもって生活し、こうした虚しさに対する答えを、哲学書から探せないかと必死に読書にふけっていた。
当時、自分の考えていたことを綴ったノートを見返すと、今でもドス黒い気持ちになれるほど人生に対して悲観的な散文がつづられている。

 

(厳密には、当時の僕が悩んでいたのは「受験、就活、出世or独立…。これからも自分の人生で優位性を示し続けなきゃならんのマジでラットレースでは?それなのにこれだけ頑張っても自分が死んだ後にはすべて無かったことになってしまうのマジ虚しくないか?」という問いに対してであり、時間認識や死生観の側面が強かった。結局、当時は真木悠介の『時間の比較社会学』を読み、自分の悩みに対する解答を得たということにした。なお、この著書の中では時間に対する現在のわれわれの認識が近代的な貨幣経済の確立と共同体の解体によってもたらされたものである、という論を比較社会学の見地に基づいて述べたものである。著書内では、今という時間が未来に対して手段化されていることが我々の時間認識に対する虚しさを生起する要因の一つとして語られているが、これは資本主義リアリズムが内包する、生きることの売春性に通じるところがあり、結局はそのあたりにうんざりしていたんだなと思う)


樋口氏はマーク・フィッシャーの書評の中で、セルフヘルプを要請する社会の生きづらさをこう引用している。

 

”「メンタルヘルスはなぜ政治的課題か」と題された論考で、彼は「鬱病の増加は、現代を覆うアントレプレナーシップの負の側面だ」と書いている。「自主自立の精神を強要された者が、突き進んでいった先で壁にぶち当たった時、何が起こるだろうか―誰も助けてはくれない。(中略)…アントレプレナーシップのファンタジーに覆われた世界では、勝者だけが存在価値があるのだと教えられる。そして、勝者には誰もが、―身分や民族やあらゆる社会的背景は関係なしに―努力次第でなれるのだと教えられる。勝てなければ孤独と非難が待っている。…(略)」”


あらゆるものが売買の対象となり、終わりのない競争の中で生き抜かねばならない世界。
自主自立の精神を、自己責任の精神を求められて生きていく世界。
成り上がりを夢見て、意識高い系学生は自分を高めさえすれば市場競争で優位に立てると信じ込まされる。

 

そうした呪いを自分にかけ続け、実際に働き出してから気づいてしまう。

自分が思ったよりは、競争の中で優位に立てないということを。

そして、勝てないのは自分に努力が足りなかったからだと、自分が世界に適応できていないからだと考える。

自分自身をもっとマネジメントできていれば、自分がもっと合理的に意思決定できていればこうはならなかったのだと考える。

これは自分自身の問題であって、自分が解決しなければならない課題であると考える。

だから自分は他者に頼らず問題を自己解決しなければならないのだと考える。

かつて自分を鼓舞するために取り入れていたセルフヘルプの精神が、今では呪いとなって祟ってくる。

呪いは自身にさらなる努力を要求し、自分が変わることを要求する。

さもなければ地に堕ちろと脅迫してくる。

 

 

自分の理想に対して現実が追従しないとき、自分の見ていた理想が息苦しい幻だったと気づけたなら、別の道が模索できるだろう。

現実を「やってらんねーよな!」と笑い飛ばし、唾を吐きかけることが出来たらなら、きっと呪いは解け、新しい見方で人生を生きることができるはずだ。

しかし、限界を超えて自助努力を自身に求め続けた結果パンクしてしまう人もいる。

精神的に追い詰められ、それでも助けを求められず、もはや制御の利かなくなった自分自身を医療によって<治そう>とする。

そうして鬱病にかかる人、自死を選ぶ人が現れてしまう。新卒数年目の社員が自死した、あるいは鬱病で離職したと報道されるのを見ると、決して他人事には思えないのだ。あれは自分のありえた姿、ありえた可能性だと思わずにはいられない。


資本主義リアリズムは、リアリズム(現実主義)でありリアル(現実)ではないと樋口氏は語る。
しかしあまりにもそれを現実だと認識せざるを得ない世の中になってしまっているがゆえに、その呪いから完全に解き放たれることは難しい。

きっと僕は再び、資本主義リアリズムが要請する世界観に疲弊してしまうだろう。

もはや過去の亡霊となってしまった学生時代の僕が、「自分をマネジメントしろ。すべては自己責任だ」と迫ってくるだろう。

そうしたときに、ここに書いた文章が再び僕に生きる気力を与えてくれますように。

 

 

PS. 

今回は自分が意識高い学生だった経緯から、自助努力を強要する風潮やUP or OUTを地で行く人生観って生きづらくねぇか、と思いこの文章を書きました。自分は学生のうちにこうした呪縛に対して向き合う時間があり、大学という教育機関の中で充分な書物と、シリアスな悩みを聞いてくれる知人に恵まれたからこの呪いの存在に気づくことができ、今回樋口氏の書評を読み改めてそれを自覚しました。

けど、もし自分が大学に行ってなかったら?あるいはこうした悩みに自覚的になることなく働き出してから呪いに苛まれたら?と考えてしまうのです。

 

最近ツイッターで、「いい大学を出て、いい就職先に就いて、いい暮らしをしているのは単純に自分が昔から努力を怠らなかったからだ」という主張に対して、「それは君の心身が丈夫で、君の両親が君が学習に専念できる環境を用意し、しかるべき努力の方針を知る人が周囲に居て、その実行が可能であっただけだ。自助努力として語られる功績は、その環境の上に胡坐をかいたうえで味付け程度にしかならないものだ」と回答されてるのを見ました。

これについて考えるに、資本主義リアリズムが要請する社会が真にシリアスなものとして立ちはだかるのは、自助努力しようにもその方針が分からない、そもそも自分を研鑽しようとする環境が揃っておらず生きるのに精いっぱいという人でしょう。

それなのに、自己責任論だけは社会全般に敷衍してるので、助けを求めようとしても「それは君が頑張ってないからだ」と結論付けられてしまうのです。それってめちゃくちゃ悲しくないか…。

このあたりを根本から解決しようとすると教育の問題や、そもそもの経済や政治の話になってしまいます。マークフィッシャーの資本主義リアリズムがそもそもそういう目的で書かれたっぽいし、それは当たり前のことなんですけどね…。